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ペースノート・オブ・テイン

世界を相手に深めた自信

抜群の性能と耐久性。テインのショックアブソーバに対する高い評価は、やがてラリー界を超えて、ストリート、レースの分野にまで波及した。それを裏付けるかの様に、N1耐久レース(現在のSUPER耐久レース)では、装着率80パーセントという驚異的なシェアを獲得した。
「自分たちのやってきたことに間違いはない。いける!」
満を持して1990年、TEINブランドによるオリジナル製品を発売した。またたく間に、自分たちの生産能力を超える注文が殺到した。
そして、テインの名声を高めたのが、二人の国際ラリーストとしての活躍だった。全日本に参戦した2年後の87年には、香港~北京ラリーで念願だった海外に挑戦。また2年後の89年には、ついに最高峰のWRCにも出場した。
その後順調にステップアップした藤本は、日本人として初めてトヨタのワークスドライバーに抜擢され、95年にはサファリラリーで、これまた日本人初の総合優勝の栄冠に輝いた。世界にも名の知れ渡った「イチノ」と「フジモト」は語る。
「テインの原点はラリーにある。常に自分たちがマーケットに一番近い場所にいたい。最前線の現場にいることで、お客様の生の声が聞けるんだ」
自分たちがTEIN製品を生で体感することで、二人の経営者としての信念は磨かれた。そして、テインはモータースポーツへの参戦を続けている。

テインにゴールは無い

テインとしての転機は1995年に訪れた。規制緩和の一環で、一般車でもサスペンションを自由に交換できる環境が整ったのだ。TEIN製品の需要は一気に高まった。クルマにも自分らしさを求める時代にあって、新たなカスタマイズ文化の旗手が、テインだった。
成長を続け、2人だけだったテインも、数十億単位の売上をあげる上場企業となった。そして、その視線は世界へ。
「グローバル化が進む中、メイドインジャパンのブランドとして、テインは国境を越えていく自信がある」
しかし世界に視野を広げていくうえで、今後も「サスペンション専門メーカー」という、創業当初からのこだわりは揺るぎない。
「今ようやく色々なことが安定してきたとはいえ、よそ見なんてしている余裕は全く無いよ。だって我々はまだ、サスペンションを極めていないのだから…」
口を揃えてそう語る市野と藤本。まっすぐに未来を見すえるたたずまいは、様々なコースの変化を予測してドライビングを行うラリーストそのもの。
「TEINショックアブソーバの理想を一言で言えば、お客様がワクワク、ドキドキするもの。いつの時代もお客様の要求はそんなに甘いものではない。だからこそ、テインにゴールは無いんだ」
テインという壮大な夢をのせたラリーカーは、市野と藤本の手でこれからもトップをひた走る。

ペースノート・オブ・テイン